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岐阜地方裁判所 昭和55年(ワ)439号 判決

原告 荻信隆

〈ほか一名〉

右両名訴訟代理人弁護士 井上正治

被告 国

右代表者法務大臣 嶋崎均

被告 山田重昭

右被告両名訴訟代理人弁護士 関口宗男

被告国指定代理人 森川昌彦

〈ほか四名〉

主文

一  原告らの請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自原告荻信隆に対し九九九万五五二二円及び内金九〇八万五五二二円に対する昭和五四年四月二〇日から、内金七八万円に対する昭和五五年七月二日から、内金一三万円に対する昭和五九年九月一日から、いずれも支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告らは、各自原告荻まゆみに対し九八三万二九六一円及び内金八九四万二九六一円に対する昭和五四年四月二〇日から、内金七七万円に対する昭和五五年七月二日から、内金一二万円に対する昭和五九年九月一日から、いずれも支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

主文と同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告荻信隆及び同荻まゆみは、訴外亡荻円美(以下円美という。)の父母であり、被告山田重昭は、国立療養所長良病院小児科(岐阜市長良一二九一番地所在、以下長良病院という。)に勤務する医師である。

2  本件診療の経過

円美は昭和四九年九月二三日生まれの女児であるが、昭和五四年四月一五、一六日頃から咳、腹痛を訴え、手足にチアノーゼの症状が出るに及び、同月一八日午後五時頃岐阜市祈年町一丁目二五番地所在の華陽民主診療所(以下単に診療所という。)で診察を受けたところ、診療所の医師岩井雄司は、右症状は気管支喘息の発作と診断したが、それに加えて心不全の存在も疑い、入院の必要があるものと認めて、円美を入院施設のある長良病院小児科に転送し、同日午後一〇時二分円美は同病院に到着した。

被告山田は、当日同病院の当直医師であったことから、円美の到着と同時に処置室で診察した結果、完全右脚ブロック、チアノーゼ、肩呼吸、強度の肝腫大の所見があったことから、喘息あるいは心不全を疑い、同日午後一一時頃、円美を病室に移したうえ経過を観察することとした。被告山田はその後一度回診した以外は、当夜の深夜勤務看護婦棚橋(旧姓河村)佳子をして巡視せしめていたところ、翌一九日午前六時頃同看護婦が円美の病状の急変に気づき、被告山田らが蘇生措置を施したが、円美は同日午前七時一〇分心不全により死亡した。

3  被告山田の責任

被告山田は、以下のとおりの過失により、小児科医として小児心不全の患者に対してなすべき通常の診断治療を怠り、円美を死亡させたものである。

(一) 被告山田は、円美につき心不全を疑っていたのであるから、直ちにその病因及び病状の解明をすべきであるにかかわらず、円美入院時においては、心電図の撮影を行ったのみで、胸部レントゲン撮影もなさず、転送後直ちにその解明をすることを怠った。

(二) 被告山田は、円美が、昭和五一年二月一七日に訴外医療法人福井循環器病院において心室中隔欠損症の手術を受けており、転送前に診療所において気管支喘息及び心不全の治療を受けたにもかかわらず症状が改善されなかったことを知りながら、三横指という顕著な肝腫脹のあることに深く思いを致すことなく、心不全の治療にとって必要な強心配糖体(セジラニッド)の使用を中止するという初歩的配慮を欠いた措置をとった。すなわち、円美は本件当時四歳六か月で体重一三キログラムであったから、強心配糖体の飽和量は「体重×〇・〇五mg/kg」によって計算すると〇・六五ミリグラムとなるが、転送前の昭和五四年四月一八日午後九時四三分に診療所の医師により〇・二ミリグラムの強心配糖体が施用されているから、その後翌一九日午前五時四三分に〇・一ミリグラム、同日午後一時四三分に〇・一ミリグラムというふうに投与を継続すべきであったし、また仮に強心配糖体の投与を中止する必要があったとしても、突然にその使用を中止するのは危険であり、順次漸減する方法をとるべきであったのに、これらの措置を採らずに投与を中止したものである。

(三) 被告山田は、前記のとおり円美につき心不全をも疑っていたのであるから、尿量及び摂取飲料の測定並びに輸液、点滴の着視をして水分の出納管理を行うのはもちろん、心臓の負担を軽減するために摂取飲料の制限を行うほか利尿剤(ラシックス等)を使用すべきであったにもかかわらず、そのいずれも怠ったものである。

(四) 円美には心臓手術の前歴があるうえ、入院時には呼吸困難、チアノーゼが存在していて心不全が疑われていたのであるから、被告山田は円美に対し酸素吸入を継続すべきであるにもかかわらず、円美が来院直後酸素マスクを嫌がったことからこれを中止していることは心不全に対する治療としては全く当を得ていない。被告山田は円美の安静を保持するためには酸素マスクによる酸素吸入を中止せざるを得なかったと弁解するが、酸素テントを使用すれば、小児の安静状態を保持しながら、酸素吸入を実施することは十分可能であった。

(五) 小児心不全は重篤であって容態が急変するおそれのある病気であるから、被告山田としては、円美につき心不全の存在を疑った以上、長良病院に呼吸循環を絶え間なく看視、管理、治療する集中治療システム(ICU、CCU)がなかったとしても、できる限りの範囲でこれに準ずる積極的な看視体制を採るべきであった。少なくとも呼吸器系と循環器系の病態把握及びその後の治療管理に大いに役立つと考えられる血液ガス検査(血中酸素分圧、炭酸ガス分圧、PHなどの検査)や、より精細な水分出納等の措置が長良病院においてできなかったとは思われない。しかし、被告山田はこれらの措置に出なかっただけでなく、翌朝円美の容態が急変するまでの間に行った回診は午前〇時半ころの一回だけであり、その後は看護婦の看視にまかせたとはいうものの、看護婦に対する指示の内容は不十分なものである。

すなわち被告山田は指示表によって当直看護婦棚橋に対し、円美につき呼吸困難、チアノーゼ、腹痛の各症状に加えて脈拍を注意するよう指示していたほか、一日六回の検温や毎時五〇ミリリットルの点滴液注入等を指示したものであるが、その内容は簡潔にすぎ、右指示に基づく同看護婦の巡視自体不十分極まりないものであって、とうてい重篤患児に対する巡視とはいえないものであったうえ、同看護婦の記入した巡視結果の報告記事によっても「下肢冷上肢暖」、「四肢冷(+)電気アンカ使用」ということが判明し、円美の病状に変化なく小康状態を保っているとはとうてい考えられないものであるから、同看護婦をして定期の巡視のほかに適宜巡視することを指示するとか、あるいは被告山田自身が夜間でも診療のために巡視する等、一層慎重な措置をとるべきであった。しかし、被告山田は右の措置に出なかったため、円美の容態が急変するまでその異常に気付くことがなかったのである。また仮に、長良病院における人的、物的施設の状況下で、被告山田において血液ガス検査、酸素テント使用、精細な水分の出納等の措置を採ることができないものであったならば、被告山田としては、岐阜大学医学部附属病院等の集中治療体制、集中治療単位チームといった救急医療体制の完備し、あるいは少なくとも長良病院より医療施設の十全な医療機関に円美を早急に転送すべきであった。しかしながら、被告山田はこれをも怠ったものである。

4  被告国の責任

被告国は、被告山田の使用者として、被告山田の本件不法行為により円美及び原告両名に生じた損害を賠償すべき責任がある。

5  損害

円美及び原告両名は、被告山田の不法行為により次のとおり損害を蒙った。

(一) 円美の逸失利益の相続分

円美は死亡当時四歳六か月の女子であったから、一八歳から六七歳に達するまで就労可能であった。そこで、同人の就労可能年数四九年間の逸失利益は、新高校卒業女子労働者の平均賃金である年額二一五万四五〇〇円(賃金月額一四万三二〇〇円の一二か月分と年間賞与その他の特別給与額四三万六一〇〇円を加算したもの)からライプニッツ式計算方法(ライプニッツ系数九・一七七)により中間利息を控除し、さらに生活費として五〇パーセントを控除して算出される九八八万五九二三円となる。原告両名は、右逸失利益を法定相続分に従って各二分の一(原告荻信隆は四九四万二九六二円、同荻まゆみは四九四万二九六一円)ずつを相続した。

(二) 慰藉料

本件により原告両名の受けた精神的苦痛を慰藉するには原告両名各自につき四〇〇万円が相当である。

(三) 葬儀費用

円美の葬儀費用は一四万二五六〇円であった。

(四) 弁護士費用

本件訴訟委任費用として、原告荻信隆は九一万円、同荻まゆみは八九万円を原告ら代理人に支払った。

6  結論

以上のとおり、原告両名は被告らに対し各自不法行為に基づく損害賠償として、

(一) 原告荻信隆は、右損害額九九九万五五二二円及び内金九〇八万五五二二円に対する不法行為後である昭和五四年四月二〇日から、弁護士費用は内金七八万円に対する昭和五五年七月二日から、同内金一三万円に対する昭和五九年九月一日から、

(二) 原告荻まゆみは、右損害額九八三万二九六一円及び内金八九四万二九六一円に対する不法行為後である昭和五四年四月二〇日から、右弁護士費用は内金七七万円に対する昭和五五年七月二日から、同内金一二万円に対する昭和五九年九月一日から、

それぞれ支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の各事実は認める。

2  同3は争う。

3  同4は争う。

4  同5のうち、(一)、(二)は争い、(三)、(四)は知らない。

三  被告らの主張

被告山田の採った措置には、以下に述べるとおり、何ら過失とさるべき点はない。

1  被告山田が、初診時に円美の病状について、気管支喘息及び心室中隔欠損症手術後のトラブルとしての心不全を疑ったことは、以下のとおり合理性があった。

すなわち、右初診時における円美には、手指及び口唇に軽度のチアノーゼ、肩呼吸、肝腫大(三横指)、奔馬調の心音、肺野ラ音、前胸壁に手術痕等がある一方で、明確な心雑音は認められず、診療所が長良病院へ円美を転送する直前に撮影した胸部レントゲン写真では、肺紋理の増強、肺野一部気腫状、心陰影拡大が認められ、長良病院入院直後の心電図撮影によると心室中隔欠損症の手術の結果と思われる完全右脚ブロック(二枝ブロック)及び左軸偏位が判明した。そして、岩井医師の紹介書及び原告荻まゆみに対する問診結果によると、円美が一歳半の頃に医療法人福井循環器病院において心室中隔欠損症の手術を受けたこと、右手術前から風邪に罹患すると喘鳴があり、喘息の気があると診断されたことがあったこと、昭和五四年四月一七日は午前中から咳があり、夕刻には腹痛、食欲低下、夜半からは喘息、呼吸困難のため肩呼吸をしはじめ、次第に右の症状が増強したため、翌一八日に診療所において受診し、診療所の岩井医師から気管支喘息と心不全の各治療を受け、若干容態が好転したこともあったが、結局、早期の好転が望めないことがはっきりしたため、入院のため長良病院に転送されたものであることが認められた。このような所見等を考慮すれば、被告山田が円美の病状につき、気管支喘息及び心室中隔欠損症の手術後のトラブルとしての心不全を疑ったことは十分肯認しうるものである。

なお、原告らは、被告山田が心電図撮影のみを行い、病因解明に必要な胸部レントゲン撮影を行っていないことを非難するが、同レントゲン写真は既に診療所医師によって撮影されていることに加え、前記各所見から、前記の診断をなすことに十分合理性がある以上は、被告山田において新たに同レントゲン撮影をする必要はなかったものである。

2  被告山田は、円美に対し強心配糖体を投与するに当り、その病状のゆえに、投与量及び投与方法について次のとおりの考慮を払った。

すなわち、強心配糖体であるセジラニッドは、二歳以上の者についての飽和量が体重一キログラム当り〇・〇二ないし〇・〇四ミリグラムで、これを三、四回に分割して投与すべきであるとされているが、本件当時円美の体重が約一三キログラムであるゆえ、右飽和量は、体重一キログラム当り〇・〇四ミリグラムで計算すると〇・五二ミリグラムであり、体重一キログラム当り〇・〇三ミリグラムで計算すると〇・三九ミリグラムとなり、これを八時間おきに二分の一、四分の一、四分の一の三回に分割して投与することになるが、円美は昭和五四年四月一八日午後九時四三分に診療所においてセジラニッドを〇・二ミリグラム投与されていることに加え、初診時に円美の病因につき心不全とその誘因としての気管支喘息の合併が考えられ、治療病態において全く逆の面が多く、しかも、完全右脚ブロック等刺激伝導障害が存し、これが三枝ブロックに移行することもあるとの配慮のもとに、心不全の原因が特定できない段階でのセジラニッドの投与につき、被告山田としては必要最小限であるべきであると判断し、翌一九日早朝に円美の容態をみたうえで追加して投与する方法をとったものである。

なお、原告らは、被告山田がセジラニッド投与を漸減の方法によらずに突然中止したことが円美にとって危険な状態となったと主張するが、右のとおり被告山田はセジラニッドを中止したものでないうえに、漸減しなければ危険であるということもないゆえ、右主張は失当というべきである。

3  被告山田は、円美の排尿及び飲料等の水分出納のバランスを保つべく、次のとおり考慮を払った。

すなわち、被告山田は、円美が診療所より施用中のソリタT1、二〇〇ミリリットルの点滴が昭和五四年四月一八日午後一一時に終了したことから、その後はソリタT3を一時間に五〇ミリリットルづつ点滴し、第一回目の排尿が翌一九日午前〇時一五分に排尿コップで五〇ミリリットルあったことを確認し、その後も一回排尿が認められ、同日午前四時には原告荻まゆみから円美がお茶を要求している旨告げられた看護婦に指示してソリタ水二〇ミリリットルを経口摂取させたが、円美の年令、体重並びに心不全の条件下としても過重の水分の投与とはいえず、また、心不全の場合でも、強心配糖体を使用してもなお効果不十分であるときに利尿剤を併用すべきものであり、とりわけ円美には気管支喘息の合併も疑われたため、利尿剤を当初から使用しなかったものである。

4  被告山田は、円美が酸素マスクによる酸素吸入を極度に嫌がり、とうてい安静を保てる状態になかったことから、右方法による酸素吸入を中止したが、これは、小児の場合には安静保持が本人にとり苦痛がより少なく、病態にとっても好ましいうえ、単に環境酸素濃度を高める方法をとるだけでは効果があるとは限らず、人工呼吸が患児にとって相当嫌悪感を伴うものであるときには右方法を実施して確実にその効果を上げるためには、完全な人的物的整備が不可欠であり、不十分な態勢で処置することはかえって禍をなすことになることを配慮しての措置であり、しかも円美の場合には酸素マスクをはずしたときの方が安静が保持され、チアノーゼ及び呼吸状態の増悪はみられなかったものであるから、被告山田の右措置は適切なものであったといえる。

5  被告山田による診察は、円美の入院後から一時間余り長良病院病棟処置室における観察と翌一九日午前〇時三〇分頃の回診の合計二回というものであるが、前記1のとおりの診断に基づき治療に当っていたもので、円美は重症であるものの、一応診療所において、気管支喘息及び心不全の手当がなされていたことから、被告山田としては、注意深く円美の容態を観察することとし、右回診後は同日午前一時までの間処置室において、自ら円美が小康状態を保っていることを確認するとともに、その後は、当直看護婦の棚橋に対する指示表に定期巡視の際の注意事項を記載することにより、同看護婦に対し注意を促したうえで、同日午前一時、三時、四時、五時の四回の巡視時点における円美の容態につき、同看護婦からその変化がなく小康状態であったことを確認しているのであるから、円美の容態の経過を観察する診療方針自体不合理でないうえ、看護婦に対する必要な指示をして定期巡視させるという被告山田の観察方法には全く問題はなく、看護婦に対する監督不十分も存しない。

そして、そもそも円美のような心臓手術後のいくつかの関連合併症を有する重症度の高い患者に対し十分な治療をするには、呼吸及び循環器系統を継続的に監視、管理、治療するいわゆる集中監視治療室(ICU)、心疾患集中監視治療室(CCU)といった高度の医療設備が整っていることが理想的であるとされるが、円美が長良病院に入院した昭和五四年四月当時には、同病院はもとより、岐阜県下にICUやCCUの設備の整った医療機関は存せず、小児の心臓疾患に十分対応できる治療スタッフがいた病院もなかったのであるから、仮に被告山田が、長良病院での治療が完全たりえないことを認識しながら、直ちに他の病院等への転送の措置をとらなかったとしても何ら適切を欠くものとはいえない。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1、2の各事実は当事者間に争いがない。

二  円美の病歴及び本件診療の経過

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

1  病歴

円美は、乳児期から風邪に罹患すると喘鳴があり、喘息の気があると診断されたことがあったが、昭和五〇年一一月医療法人福井循環器病院で精密検査を受けた結果、重度の心室中隔欠損症と肺動脈高血圧と診断され、昭和五一年二月一七日円美一年四か月のときに右病院において、心室中隔欠損根治術(縦横一・五センチメートル大の心室中隔欠損孔をテフロンパッチによって閉鎖する手術)の施行を受けたところ、手術後は一時的に房室の解離(心房と心室が別々に拍動する現象)が認められたものの、早期に回復し、正常な洞調律を示すようになった。

術後一年経過後に右病院において行われた検査結果によれば、心カテーテル検査上左右心室の交通を示す所見はなく、欠損孔は閉鎖され、肺動脈の血圧もほぼ正常あるいは正常の上限まで低下し、心雑音も消失しており、また喘鳴を伴った呼吸の出現度合も減少し、一般状態も好転するに至った。もっとも心電図所見ではいわゆる心室内刺激伝導系の障害として、手術前から存在していた左軸偏位が依然として残存していたうえ、手術に起因する完全右脚ブロックも認められ、レントゲン写真によっても肺の気腫様所見が残存していたものであるが、上記の心カテーテル検査の結果等から判断すると、円美に対する心室中隔欠損根治術の施行は一応その目的を達し、血行動態もほぼ正常化していて、福井循環器病院の最終退院時から本件発症に至るまでの間は、心機能不全による著しいうっ血性心不全が存続する状態にあったとは考えられない。

2  本件入院前の病状等

円美は昭和五四年四月一七日咳、腹痛等の症状を呈し、同日夜半には喘鳴、肩呼吸の症状が加わり、次第にその症状が増強してきたため、翌一八日午後五時半頃、診療所で受診したが、その際には喘鳴、肩呼吸、軽度のチアノーゼ、呼吸時の乾性ラ音の症状を示していた。そこで診療所の岩井医師は、円美の症状につきまず気管支喘息を疑って、酸素吸入、気管支拡張剤(アロテック)、副腎皮質ホルモン(サクシゾン)及びソリタ水T1二〇〇ミリリットルの点滴を各施用したが、他方で胸部レントゲン写真では心陰影拡大が認められたため心不全をも疑い、同日午後九時四三分頃強心配糖体(セジラニッド)〇・二ミリグラムを投与して経過を見ていたが、症状が改善されないため、入院の必要性を原告荻まゆみに告げるとともに長良病院に対し入院依頼をなし、その後、円美の容態が若干良くなったことから転送を見送り、様子を見ていたが、結局症状が好転しなかったため、酸素吸入と点滴を施用しながら円美を長良病院に転送した。

3  本件入院後の病状等

(一)  長良病院において当直に当っていた被告山田は、同月一八日午後一〇時頃円美の到着と同時に同病院病棟処置室においてその診察を開始した。そのとき、円美は診療所で施用された酸素マスクによる酸素吸入とソリタ水の点滴を継続して受けていたのであるが、酸素マスクによる酸素吸入を嫌い、同行してきた原告荻信隆に抱き付こうとしたり、点滴を外せとか、家に帰るなどと相当むづかり、そのままでは診察が困難な状況となったため、被告山田は円美から酸素マスクを外してみたところ、円美が少し落着きを取り戻し、特にチアノーゼの増強もなかったことから、酸素マスクを外したまま診察を行った。円美は意識ははっきりしているものの、口唇に軽度のチアノーゼがあり、肩呼吸をし、若干肝腫大(三横指)で、心音は奔馬調を呈し、明確な心雑音はなく、肺野全体に苗声とギーメン(ラ音)が聴取され、前胸部に手術痕があり、心電図を撮影したところ、心室中隔欠損症の手術の結果と思われる完全右脚ブロック、左軸偏位が認められた。また、岩井医師による治療内容等を記載した紹介書には、診療所における円美の症状につき、喘鳴、チアノーゼ、肩呼吸、乾性ラ音があり、これに対し、点滴(ソリタT1二〇〇ミリリットル)、前記気管支拡張剤と、副腎皮質ホルモンの投与とともに酸素吸入を施用し、この他に強心配糖体(セジラニッド〇・二ミリグラム)を与えた旨記載があった。また、右紹介書に添付されていた診療所撮影にかかる円美の胸部レントゲン写真によると、肺紋理の若干の増強と、肺野一部気腫状、心陰影拡大が認められた。

他方当直の看護婦中山は原告荻まゆみに対し予診用紙への記入を求めるとともに、問診をなし、それに次いで被告山田が同原告に対し円美の病歴等について問診した。被告山田による問診では、(一)円美は一歳半の頃、福井循環器病院で、心室中隔欠損症の手術を受け、その後は風邪に罹患することが少なくなった、(二)右手術前から風邪に罹患すると喘鳴があり、喘息の気があると診断されたことがある、(三)昭和五四年四月一七日夕刻、咳、腹痛があり、食欲も低下し、夜半から喘鳴、呼吸困難となり、次第に症状が増強したため、翌一八日夕刻診療所において治療を受けたことが明らかになった。

被告山田は、右のとおり、岩井医師作成の紹介書及び問診の結果によって円美の病歴、本件入院前の症状及び診療所における診断と治療の経過を把握したうえ、同日午後一一時頃までかかって円美の症状の診察、心電図とレントゲン写真の検討を行った結果、円美の病因として気管支喘息のほか心不全の存在をも疑うに至ったが、一応診療所において気管支喘息及び心不全に対する投薬がなされていて症状も安定していたことから、患者の安静を保持したまま当分の間経過観察を行うこととし、円美の安静を配慮して、照明具で非常に明るくされている処置室から、比較的静かな隣りの病室に円美を移した。その際、被告山田は、円美が酸素マスクを外したまま約一時間経過したにもかかわらず、チアノーゼの増強が見られなかったことから、むしろ円美の安静を保持することに重点を置き、円美に再度酸素マスクを付けることはしなかった。

(二)  被告山田はそのころ原告荻まゆみに対し、右円美の病歴等に照らすと、病状は重く、その病因については喘息のみか心疾患のなごりと喘息の合併によるものか、あるいは、心疾患で新らたに問題を生じたものであるのか断定しかねるが、診療所で喘息及び心疾患の投薬がなされ、現在病状が安定していることから安静にして経過をみる旨説明した。

(三)  被告山田は同日午後一一時頃、診療所で施用された輸液ソリタT1二〇〇ミリリットルの点滴が終了したため、ソリタT3を一時間当り五〇ミリリットルの施用速度で投与することとした。

(四)  同日午後一二時頃看護婦中山が巡視したところ、円美は、眠っており、チアノーゼも喘鳴も入院当初より良くなっているような状態で、ただ、円美の手足が冷えてきていたため、右看護婦の判断により電気アンカが使用された。翌一九日午前〇時一五分、円美に五〇ミリリットルの排尿があり、被告山田は自らこれを採尿コップで確認し、輸液量の調整の要否につきアセトン検査をしたところ陽性の反応があった。

(五)  同日午前〇時三〇分、被告山田が回診した際の円美の症状も入院当初と大きな変化はなく、むしろ安静にしていて悪化が認められなかったことから、被告山田は、同日午前一時頃当直看護婦の交替時に引継看護婦に対して円美に関し、一日六回の検温、ソリタT3を毎時五〇ミリリットル宛点滴、セファメジンを五〇〇ミリグラム宛三回の各投与と呼吸状態及びチアノーゼに注意するよう指示表をもって指示し、その後は当直看護婦の巡視に委ねた。

(六)  右同日午前一時から当直看護婦であった棚橋は、被告山田の右指示に従って午前一時、一時三〇分、三時、四時、四時三〇分、五時、六時の七回円美の病室へ行き円美の病状を観察した。円美の病状は、右午前一時頃には脈拍が一分間に一二四、呼吸が一分間に四八、体温三六・七度で、入眠しており、同日午前一時半には肩呼吸をして、軽度の発汗があり、同日午前四時頃に原告荻まゆみから円美が水分を要求している旨申出があり、被告山田の指示でソリタ水二〇ミリリットルを与え、同日午前五時頃には円美は入眠しており、肩呼吸は軽度であった。その間、チアノーゼの程度やその他の病状に特段の変化が認められることなく経過しており、円美に付添っていた原告荻まゆみからも症状が増悪した旨の訴えもなかった。ところが、棚橋が同日午前六時頃巡視したところ、円美の容態がその後急変していて呼吸が停止していることを発見し、被告山田らが人工呼吸や心臓マッサージ等を実施したが、円美は蘇生することなく、午前七時一〇分死亡した。

4  死因

円美の死因は、心電図モニターがとられておらず、死後剖検もなされていないため断定することはできないが、《証拠省略》によれば、死亡に至る機序として下記の(イ)ないし(ニ)の可能性が考えられるところ、そのうち(イ)である可能性が高く、(ロ)、(ハ)、(ニ)の可能性も否定できないとされる。

(イ)  呼吸器障害、循環器障害の負荷増悪によって重篤な低酸素症が発生し、心手術後残存する刺激伝導系の異常が心肺危機に際し生存上、不利な場を提供し、完全房室ブロック、心室細動、心停止などから、心調律異常死へ導いた可能性

(ロ)  いわゆるうっ血性心不全が呼吸器障害負荷とともに増悪し、死に至った場合

(ハ)  喘息様呼吸器変化が右心不全を惹起し、心不全低酸素症へ導いた場合(低酸素状態は(イ)を来しうる。)

(ニ)  (イ)、(ロ)、(ハ)の何れかに睡眠中の呼吸中枢の抑制が生じ、それに続いて換気量の低下と低酸素症や交感神経系の活動低下と心機能不全が加って死に至った場合

以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

三  被告山田の責任

そこで、以下被告山田の円美に対する診療行為が不法行為に該当するかについて検討する。

1  原告らは、被告山田が円美につきその入院当初から心不全を疑いながら直ちにその病因の解明をしなかったことには過失があると主張するので、まず入院当初の円美の病状について検討するに、《証拠省略》によれば、円美は心手術前、肺動脈高血圧症によって肺動脈が拡大し、これが気管支を圧排して気道の偏平狭小化をもたらした結果、何らかの原因によって気道内粘膜が腫れたり、気管支が攣縮したりすると喘鳴や呼吸困難を来たし易くなっていたものであり、そのような気管支呼吸系の狭少化及びそれによる肺気腫は手術後も残存し、喘息様気管支炎あるいは気管支喘息に罹患し易い素地もまた残存していたと考えられるところ、これに罹病するようなことがあれば、その症状が心臓に対する負荷となって心不全その他の異常を惹起する契機となる可能性もあったこと、ところで、円美はその入院時において喘鳴を伴った喘息様呼吸状態あるいは喘息様気管支炎及びそれらによる軽度のチアノーゼの症状を呈していたものであるが、その時点では胸部レントゲン写真等からみて、円美が心臓喘息または著しいうっ血性心不全の状態にあったとは認められず、したがって円美に明らかな心疾患があるとまでは断定できなかったものの、他方においては心不全によっても生じうる肝腫大等の症状が認められたうえ、円美に心手術の既往があることをも考慮すると、右の呼吸障害が心臓に波及して心不全を惹き起しつつあるなど心臓に何らかの異常が生じていることを疑ってそれに対する措置を講じることが適当とされる状況にあったものと考えられること、以上のとおり認められる。

そして、前記認定事実に《証拠省略》を総合すると、被告山田は昭和五四年四月一八日午後一〇時頃円美来院と同時にその診察を開始し、岩井医師作成の紹介書、原告荻まゆみの記入にかかる看護予診録、原告荻まゆみに対する看護婦中山の問診の結果及び同原告に対する被告山田自身の問診の結果によって前記のとおり円美の病歴、本件入院前の症状及び診療所における診断と治療の経過を把握したうえ、同日午後一一時頃までかかって、円美の症状の診察、及び心疾患の診断に不可欠な心電図の撮影を行い、かつ診療所で撮影した胸部レントゲン写真を検討したものであって、その結果岩井医師と同じく被告山田もまた円美の病因として気管支喘息に加えて心不全の存在をも疑うに至ったものであるが、一応診療所において気管支喘息及び心不全に対する投薬がなされていることから、患者の安静を保持したまま経過観察をすることにし、前記二3のとおり、同日午後一一時以降翌朝までの間は右投薬の効果と病状の経過を見守ることとしたものであることが認められる。

右の事実によれば、被告山田は本件のような症例について通常必要とされる診断手段を用いて円美の病因の解明に当っていたものと評価することができ、その結果円美の入院当時の病因につき気管支喘息ならびに心不全と診断した被告山田の判断も妥当であって、その時点における被告山田の判断に誤りがあったとは認められない。

原告は、被告山田が円美につき胸部レントゲン検査をしなかったことをもって、病因の早期解明を怠ったことの証左とするが、被告山田は、円美の長良病院への転送直前の診療所において撮影されたレントゲン写真が右転送に伴って長良病院に送付されてきていたものを病因検討の資料として用いていることは前記認定のとおりであり、右レントゲン写真の所見と入院時において円美の病状が安定していたこととを併せ考えると、その時点で再度レントゲン写真を撮影するまでの必要がなかったことは《証拠省略》によりこれを認めることができるから、右主張を採用できないことは明らかである。他に、被告山田が通常の診察手段を用いることを懈怠するなど病因の解明を怠ったことを認めるに足りる証拠はない。

2  原告らは、被告山田が心不全の治療薬である強心配糖体セジラニッドの円美に対する投与を中止したことは、小児科医として小児心不全に対して通常なすべき治療を怠ったことになると主張するので判断する。

そこで、まず強心配糖体セジラニッドの投与方法等について検討するに、《証拠省略》を総合すると、セジラニッド等のジギタリス製剤はうっ血性心不全等の心疾患に効果のある強心剤ではあるが、蓄積性があって中毒になり易く、徐脈・不整脈等の副作用を生じることがあり、その用法及び用量には注意を要するとされているところ、製薬会社発行の効能書には、急速飽和療法を採用した場合のセジラニッドの用法・用量につき、二歳以上の者については一日に体重一キログラム当たり〇・〇二ないし〇・〇四ミリグラム量を三ないし四回に分割して静脈内あるいは筋肉内に注射すべき旨の、また、使用上の注意として、「房室ブロック、洞房ブロックのある患者には投与しないこと」、「うっ血性心不全を伴う戻室ブロック、洞房ブロックのある患者には投与しないことを原則とするが、止むを得ず投与する場合には慎重に投与すること」の各記載があること、右のように一日量を分割して投与することとされているのは、個人差のあるジギタリス中毒の発見を容易にするためであること、ところで、円美(体重約一三キログラム)に対する一日当たりの投与量(飽和量)を右の効能書の指示するところに従って計算すると〇・二六ないし〇・五二ミリグラムとなるが、円美に対しては長良病院への入院直前の一八日午後九時四三分頃診療所において、右飽和量の約半量もしくはこれを超える量に当る〇・二ミリグラムが既に投与されていたのであるから、一日当たりの飽和量の残量は〇・〇六ないし〇・三二ミリグラムにすぎなかったこと、被告山田もまた円美に対してセジラニッドの継続投与を考えたのであるが、円美に対しては右のとおり飽和量の約半量もしくはこれを超える量が既に投与されているうえ、円美には心手術の前歴と完全右脚ブロック等の心室内刺激伝導系の障害が存することから、多量に投与することはむしろ危険性を伴うと考え、飽和量の残量の二分の一宛を当初の投与時刻から八時間おきに、円美の症状の経過を見ながら、投与していく方法をとることにしたものであって、第二回目分としては翌一九日午前六時あるいは七時頃に〇・一ないし〇・一五ミリグラムを投与する予定でいたこと、被告山田のセジラニッド投与に関する右の方針は、セジラニッドの投与方法につき前記効能書の指示するところともよく合致するものであり、これに円美の症状を併せ考えても、右の方針に不相当な点があるとまではいえないこと、以上のとおり認められる。右認定に反し、被告山田がセジラニッドの投与を中止したとの原告主張事実を認めるに足りる証拠はなく、また、被告山田のセジラニッドの投与に関する右の方針が、一般の医療水準に照らして当然なすべき治療を怠ったものと認むべき証拠もない。

3  次に、原告らは被告山田が前記のとおり円美につき心不全を疑っていたのであるから、尿量及び摂取飲料の測定、摂取飲料の制限ならびに利尿剤の投与を行うべきであったにもかかわらず、そのいずれも怠った旨主張する。

《証拠省略》を総合すると、一般に心不全の患者に対しては過度の水分の供給は避けるべきであるとされ、また心臓の負担を軽減するための措置として利尿剤(ラシックス等)の使用が有効であるとされていることが認められる。そこで、まず被告山田による円美の水分出納調整について検討するに、前記認定のとおり、昭和五四年四月一八日午後一一時ころ、診療所で施用された輸液ソリタT1二〇〇ミリリットルの点滴が終了したことからソリタT3を一時間当り五〇ミリリットルの施用速度で投与を継続し、翌一九日午前四時頃には円美の要求でソリタ水二〇ミリリットルを経口摂取させているが、他方同日午前〇時一五分ころ、五〇ミリリットルの排尿が、同日午前一時半ころには軽度の発汗が認められたというものであり、以上の事実に《証拠省略》を総合すると、円美の年令、体重及びその症状経過が比較的小康を保っていることを合わせて考慮すれば、心不全の疑いがあるとしても、右のような被告山田の措置をもって過量な水分投与とまではいえないことが認められる。そこで、次に被告山田が円美に対し原告ら主張にかかる利尿剤(ラシックス等)を使用しなかったことの当否について検討するに、《証拠省略》を総合すると、前記のとおり既に診療所において投与された強心配糖体(セジラニッド)にもある程度の利尿作用が期待できるものであって、それで不十分な場合にはじめて他の利尿剤の併用が検討されるべきものであるが、円美については前記のとおり排尿が確認されていて水分の供給が過剰になっているとまでは認められないこと、また、一般に利尿剤を用いる場合には排尿の程度に応じて体内の血中塩分濃度が高まり、それに基づく障害の発生も危惧されるため、児童においては、この面から利尿剤の使用量をできるだけ少量にするのが妥当とされているのであり、しかも本件においては未だ円美の心不全の原因が特定できず、場合によっては、心不全の誘因として気管支喘息の合併症も疑われていたところ、喘息の症状に対してはむしろ水分の供給が必要とされるわけであるから、被告山田が利尿剤の使用につき、セジラニッド使用によっても十分な利尿作用が期待できない場合にその併用を実施しようとしていたとしても、その判断をもって、医師としての通常の判断を誤ったものであるとすることはできない。

4  原告らは円美の病状からすれば同人に対し酸素吸入を継続すべきであったにもかかわらず、被告山田がこれを中止したことは当を得ていない旨主張するので判断するに、《証拠省略》に前記認定事実を総合すると、長良病院入院の当時円美は呼吸困難による軽度のチアノーゼの症状を呈していたものの、軽い低酸素状態という程度のものであっていわゆる低酸素症といわれるようなものではなく、円美の右症状からすれば、酸素吸入を必須とする程重篤な状態ではなかったこと、もっとも、円美のように心手術後遺症の残存するものは心肺危機に際し生存上不利であって、重篤な低酸素症にでもなれば突然死を招く可能性があったのであるから、より症状の軽い低酸素状態のうちから酸素吸入を行うなど慎重な対応を採ることが望ましかったものといえること、しかしながら、そのような転帰をとる原因としては、それのみにとどまらず、例えば泣き喚くなど安静を保持できない場合にもそれが契機となって房室ブロックなどの重篤な状態を生じる可能性があるのであって、円美のような心手術後遺症のあるものについて心不全が疑われた場合には、その安静を保持することもまた重要とされていること、ところで、円美は長良病院入院の時点において酸素マスクによる酸素吸入を苦にしてかなりむずかり、診察を継続することが困難な状況となったため、被告山田は酸素吸入を中止したものであるが、それによってチアノーゼの増強等症状の増悪を来たさなかったこと、そこで、被告山田は酸素マスクによる酸素吸入を再開すれば円美の安静を保持できなくなると考え、また右のとおり酸素吸入を中止してもチアノーゼの増強が見られないなど円美の病状が一応安定していることも考慮して、むしろ円美の安静を保持することに重点を置き、酸素吸入を中止したまま円美の病状の経過を観察することにしたものであり、その後円美の容態が急変するまでの間においてもチアノーゼの程度や、その他の病状に特段の変化が認められることなく経過していたことが認められる。

ところで、一般に、医師が患者の病状に即して採用すべき診療方針及び措置は治療を委ねられた医師の裁量の範囲に属するというべきところ、上記認定事実によって考えると被告山田が円美に対し酸素マスクによる酸素吸入を断念して安静の保持に重点を置いたことは、なお右の裁量の範囲内に留まるものということができる。他に被告山田の採った右措置が裁量の範囲を著しく逸脱したことを認めるに足りる証拠はない。

もっとも、酸素マスクの使用に代えて酸素テントを使用すれば、酸素を供給しながら患者の安静を保持することがより容易になることが推認できるところではあるが、円美の病状が小康を保っていて酸素吸入を必須とするほどのものではなかったことは上記認定のとおりであるから、被告山田が酸素テントを使用しなかったことをもって小児科医として通常の注意を欠いた措置とまで断ずることはできないものといわざるをえない。なお付言するに、《証拠省略》によっても、仮に円美に対して酸素テントによる酸素吸入を継続したとしても、それによって低酸素状態の進行等症状の悪化を喰い止めることが可能であったとまでは認められないところであり、他に被告山田による酸素吸入の中止と円美の死亡との間に相当因果関係を認めるに足りる証拠はない。

5  《証拠省略》を総合すると、呼吸器、循環器系疾患、とくに心臓手術後のいくつかの合併症状を有する重症の患者に対し十全な診療をするためには、呼吸・循環を継続的に監視、管理、治療を行いうる集中監視治療室(ICU)あるいは心疾患集中監視治療室(CCU)といった高度の医療設備が必要とされるのであって、円美についてもこのような集中治療システムが適用されていれば、結果的に円美を救命しえたか否かは別として、円美が心肺の危機に瀕したときにはより望ましい高度かつ精細な診療を行いえたであろうこと、しかし、円美が長良病院に入院した昭和五四年四月当時においては、長良病院はおろか岐阜県下にも前記ICU、CCUといった高度医療設備を有する医療機関は存在していなかったこと、以上の事実を認めることができる。

ところで、原告らは長良病院にICU、CCUがなかったとしても、被告山田はできる限りの範囲でこれに準ずる積極的な監視体制を採るべきであったと主張するので、被告山田及び長良病院における診療体制について検討するに、前掲各証拠によれば、円美が入院した当時の長良病院においては、重症患者に対し用いうる医療機材として、未熟児治療用の設備としてのものが若干あったが、これらの機材は各別に作動させるもので呼吸や循環器系統を継続的、組織的に監視ないし管理するものでなかったうえ、当時の長良病院における、円美が入院した病棟の夜間の診療体制は、医師一名と、看護婦が午後四時三〇分から翌日午前一時の間を準夜勤として二名(うち一名が新生児担当)、同〇時三〇分から同九時の間を深夜勤として三名(うち二名が新生児担当)という各配置であり、円美の入院当時の右病棟の入院患者は三四名で、このうち一八名が未熟児等の新生児であり、また円美が入院した翌日の午前三時ころには、てんかんの重症患者が来院したため、当直の被告山田及び看護婦はその患者の診療にも当っていたもので、右のような条件下では、被告山田及び当直看護婦が常時円美の病状を継続監視する体制を採用することは不可能であり、結局、医師による回診と医師のの指示を受けた看護婦による巡視という診療体制を採用せざるをえないところ、本件においては、被告山田は当直(とくに深夜勤)看護婦に対し円美の診療につき指示表を作成して円美の病状、診療上の注意事項、指示事項を指示しており、右看護婦も前記認定のとおり一九日午前一時、一時三〇分、三時、四時、四時三〇分、五時に定期巡視及び随時巡視をして指示事項を実施したうえ、心不全あるいは気管支喘息の疑いがあったことから指示事項にはなかったものの、看護婦において円美の水分出納に注意を払ったりしていたことに照らすと、右看護婦の巡視を不十分なものとみることはできず、また被告山田にも看護婦の監督につき不十分な点があったとすることもできないのであるから、当時被告山田らが採用した診療体制は、右条件の下ではやむをえないものであったというべきである。また、原告ら主張の血液ガス検査の実施及び精細水分出納の管理が円美の病態の把握とその管理のためにより望ましい措置であったとしても、これらの措置に出なかったことをもって、被告山田が医師として通常払うべき注意を怠ったとまで断ずるに足りる証拠はない。

次に原告らは長良病院において十分な診療ができないことが判明した時点で、より医療設備の備った医療機関へ転送すべきであったと主張するが、円美が長良病院に入院した当時、岐阜県下に前記ICU、CCUといった高度医療設備を有する医療機関が存在しておらなかったうえ、前記認定のとおり、円美は入院当初から安静を取り戻してきており、転送の作業によって再び円美の安静を阻害することは適切と考えられないものであったから、長良病院に比して、いかばかりか個々の設備が整った医療機関に転送することによって得られる診療上のメリットが、転送により安静を阻害することによって引き起されるデメリットを十分に補いうるかについてはなはだ疑問が残るものである以上、被告山田らが他の医療機関に円美を転送しなかったことをもって、医師として通常の判断を欠いたものとすることはできない。

6  以上のとおりであって、被告山田の円美に対する診療行為には被告らの過失を推断すべき注意義務違反を認めることはできないから、右診療行為が不法行為に該当するとはいえないものである。

四  結論

そうすると、その余の点につき判断するまでもなく、原告両名の本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡辺剛男 裁判官 大月妙子 沼田寛)

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